日本に住んでいて、世の中が動く中で、経済も動いています。そんな中、確実に量と物質が求められていた市場は、質と感動へと重きが移っているように感じます。 それは子供の成長期には目に見える形、量を求めることに対して、大人になり成熟していくと質を理解し、求めるようになるように。そもそも量をうけつけることができないという表現も良いかもしれません。例えば、モノを売る小売りがライフスタイルを売るようになったのも、その一つであるし、音楽業界のライブが好調であることもその一つ。また、アウトドアや農体験などが広まっているのもその一つです。

先日、スタートトゥデイの前澤氏がおもしろいツイートをしていまいた。お金が無くなるということに関して。





お金は、テーマとして本当におもしろいと思います。自分が受けてきた教育の中で、お金について学んできた経験がとくにありません。こんなにもお金は身近なものであるのに。しかし、大人になるにつれてお金の機能や深さに気付き始めた時、自分含めて身の回りの人たちもお金のリテラシーが低いのではないかと感じるようになりました。それは、つまりお金の稼ぎ方ではなくて、お金の扱い方や性質についてという意味のリテラシーです。

前澤さんとお話しさせて頂いた時に、お金についてのお話も少しあがりました。その時はお金と平和に関連した思想が垣間見えたように感じました。

前澤氏のツイートにある「お金を地球上から消す」という文面のアンサーとなるか分かりませんが、「お金はすでに無くなりつつある」ということを感じています。それは、比喩ですが、従来の価値観にお金は廻らないようになってきているし、権力、パワーとしてのお金の効果も弱まってきているのではないか、ということです。

なぜなら、お金は量や物質的なものを手にするためには効果を発揮しますが、良質な感動を体験をするためには必ずしもお金は必要としない側面があるように思うからです。

本当に世の中の価値体系と市場経済は繋がっているように実感するのですが、先で述べたようなモノが溢れ、体験に重きがあるような雰囲気のマーケットは実際にあるように感じます。お金は道具であり、目的ではないわけでありますが、目的である感動は、もしくは食べ物、衣服、住環境などは、大きなお金を必要とせず産み出せつつあるということも、お金のパワーが弱まっている一要因であるように思います。

また、お金と中央集権的な権力って表裏であると思うのですが、そこにおいてもお金を多く持っていること、もしくはお金を生み出せるということが、人々を魅了する要素としては薄れてきているように思います。なぜなら、先で述べたようにお金がなくとも感動を生み出せることができるようになってきていて、お金がもつことが権力として機能しなくなってきているからです。

例えば、出世に興味がないという若者が増えたということがあるならば、その出世という意味合いは従来の価値体系である、「お金をたくさんもらって、偉そうに振る舞う」ということには興味がないということであるわけです。つまり、若者は出世に興味がないわけではなく、従来の価値体系に興味がないということではないでしょうか。

さて、そのような時代背景や価値観の変化の中で、お金はパワーを持たなくなってきていると思うわけですが、逆に言えば、そもそものお金は道具であることが再認識しやすい時代に突入し始めていると言えるかもしれません。お金がもらえるから、あの人と付き合おうとか、お金が手に入るから動こうとかという力学が働きにくくなってきているということです。

とはいえ、お金で食べ物を買う、着るものを買う、住むところを確保するということに変わりはなく、しかし、お金を目的でないことが、成熟社会において広まってきたので、お金に振り回されることが少なくなりつつある。その意味において、「従来の意味したお金は無くなりつつある」という表現ができるように思うわけであります。