情報の伝え方は、メディアを運営する者にとって、気になるテーマではないでしょうか。本書の中で印象的だったのは、池上氏が事実を伝えるということに重きを置いているのではないかと、感じ取れた点です。

「真実が何かということは、人間には分からないけれど、世の中には事実がある。」というようなことが述べられています。事実はこうなっているから、答えはおのずとこうなるよね、という順序。

価値判断を込めた主張に重心をおくというよりも、確実な事実を伝えるということに徹する。その先にはそれぞれの判断があるということ。そのような伝え方が、池上氏の伝え方であるように感じました。

そして、もう一点興味深かったのが、津田氏が述べる、田原総一郎氏の話。田原氏は、ある番組でジャーナリストには二つのタイプがあると述べたようです。一つは、「事実を伝えて、その結果として世の中が変わっていけばいいなと思うタイプ」と、もう一つは、「世の中を変えるためにジャーナリズムを手段として使うタイプ」。

そのタイプ分けを見た時、前者は伝え方として事実に重きを置いているような気がしました。池上氏も自分は前者のタイプであると述べています。一方後者のタイプは、伝えるにしても、行動するにしても、自らの価値判断がそこには込められていると考えられます。

私は本書を読んで、ただ事実を伝えることに徹底するのか、もしくは価値判断を込めた情報を伝えるのかという、スタンスのあり方が非常に気になり、考えさせられました。

しかし、そのテーマを二元論として、単純に分けることも困難です。例えば、事実に徹底するとしても、伝えるテーマを選んでいる時点で、大きくはそれ自体が価値判断であったりするからです。

今、ぼやっとした思考にあるのは、事実を伝えることに徹するというアプローチはプロフェッショナルだなぁと思っているということです。

なぜならば、価値判断を込めるというのは、いつでも、やろうと思えば安易にできることだと思うからです。事実を浅く知っている人、深く知っている人に関わらず、誰でも価値判断を込めて情報を伝えることができます。つまり、容易に価値判断を込めることができます。

一方で、事実を伝えることに徹するというのは、確実な事実を調べて、事実を追い求めているので、読者や視聴者は、判断や行動の材料とすることができます。それは、価値判断が事実をもとに見出した二次情報と考えるならば、事実は一次情報であると考えるからです。

しかし、自らのことを省みても、美しいものを美しいと伝える時は、そこに価値判断を込めているし、企業のマーケティングを解説するときは、経験値を利用する時もあります。経験値を利用するということは、価値判断を込めるということと非常に近いことを行っていると思います。

様々なことを考えると、事実の伝達に徹底するのか、それとも価値判断を込めることを良しとするのか、どちらが優れているのかということではなく、それらは役割の異なりであるように思います。

事実が無ければ、価値判断を込めることはできないし、事実が既にあるならば、価値判断を求めたくなります。事実が一次情報として、二次情報の価値判断よりも優れているという見方がある一方で、事実を元に、次の行動である価値判断はより高次なものであるという見方もできます。

ゆえに、両方とも情報としては必要なものです。ただ、インターネットの発達で、事実に最も近い人がそれぞれに事実を発信できるようになりました。それに伴い、事実は能動的に求めなくてもキャッチしやすくなっているようにも思います。

そこからすると、事実に対する価値判断や、事実と事実が絡み合うテーマに対する価値判断を込めた情報発信は、多くの事実に触れるメディアの重要な役割であるように感じています。

なぜならば、事実は、事実として存在しているのだから。